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佐藤春夫について

 佐藤春夫は、大正中期(1910年代末)から昭和30年代(1960年代前半)にかけて活躍した日本の代表的文学者です。門弟三千人といわれるほど師とする人の多い点では文壇でも飛び抜けた存在でしたし、最晩年には(昭和39年10月の)オリンピック東京大会の開会式で斉唱される「賛歌」の作詞をNHKから委嘱されるような国民的大詩人でもありました。

 佐藤春夫は、明治25年(1892年)東牟婁郡新宮町に生まれ、新宮第一尋常小学校(いまの丹鶴小学校)から新宮高等小学校をへて新宮中学に進みました。医師の父・豊太郎が文芸にも造詣が深かったこと、町には(のちに大逆事件に連座させられて刑死する)医師・大石誠之助やのちに文化学院を創設する西村伊作、キリスト教会牧師で作家にもなる沖野岩三郎ら先進的、開明的な文化人が活発に活動していて中央の文学界、思想界ともつながっていたことなど、家庭的、地域的に恵まれた環境の中で春夫は早熟な文学少年として成長していきました。中学時代、文学書を読み耽って落第したり、与謝野鉄幹ら一行の文芸講演会の前座講演をつとめて無期停学処分を受けたりしますが、それらもかえって春夫の文学志向に一層拍車をかけることになりました。
 明治43年(1910年)、中学卒業と同時に上京、慶應義塾大学予科文学部に入りますが、のちに中退。雑誌「三田文学」「スバル」などに詩歌を発表、また「西班牙犬の家」を発表してその才能が注目されつつありましたが、大正7年(1918年)、谷崎潤一郎の推挙により文壇に登場、以来『田園の憂鬱』『お絹とその兄弟』『美しき町』などの作品を次々に発表してたちまち新進流行作家となり、芥川龍之介と並んで時代を担う2大作家と目されるようになりました。
 作家・中村真一郎は春夫を「現代の作家のなかで最も多方面に文学の可能性を探ね、最も実験的な仕事を重ね、最も多彩な作品群を残した人」と評していますが、確かにその著作は多様多彩で、詩歌(創作・翻訳)、小説、紀行文、戯曲、評伝、自伝、研究、随筆、評論、童話、民話取材のもの、外国児童文学翻訳・翻案などあらゆるジャンルにわたっています。ですから、紀州の生んだ世界的大学者・南方熊楠と同様に、その全体像を掴むのはきわめてむずかしい作家といえるかもしれません。
 ここではとりあえず主な作品を、発刊の時期別にまとめておきたいと思います。

(大正10年代) 『殉情詩集』 『南方紀行』 『都会の憂鬱』 詩文集『我が一九二二年』 『侘しすぎる』 『李太白』 訳書『ピノチオ』 『女誡扇綺譚』  『佐藤春夫詩集』 『蝗の大旅行』 『退屈読本』
(昭和初年代) 『文芸一夕話』 『厭世家の誕生日』 『支那童話集』 『神々の戯れ』 訳詞集『車塵集』 『更生記』 『心驕れる女』 詩集『魔女』 『維納の殺人容疑者』 『みよ子』 『ぽるとがる文』 『閑談半日』
(昭和10年代) 『掬水譚』 『絵本FOU』 『熊野路』 『泰淮画舫納涼記』 詩集『東天紅』 『戦線詩集』 詩劇『八雲起出雲阿国』 短編集『びいだあ・まいやあ』 『山田長政』 『奉公詩集』
(昭和20年代) 詩集『佐久の草笛』 中国詩選『玉笛譜』 『自然の童話』 詩文集『まゆみ抄』 『抒情新集』 『近代日本文学の展望』  『近代神仙譚』 『わが小説作法』 『晶子曼荼羅』
(昭和30年代) 随筆集『白雲去来』 『小説高村光太郎像』 『観潮楼附近』  『小説智恵子抄』 『わんぱく時代』 『みだれ髪を読む』  『わが龍之介像』 『小説永井荷風伝』 『詩の本』 『極楽から来た』  『美の世界』 『詩文半世紀』 『愛の世界』 『佐藤春夫文芸論集』 

 佐藤春夫は、こうした旺盛な創作活動を続ける傍ら、法政大学予科の講師をしたり(昭4〜)、西村伊作校長の文化学院の4代目文学部長を10年近くつとめたり(昭11〜)、(昭10)芥川賞創設以来ずっと長い間その銓衡委員をしたりしています(昭37辞任)。昭和34年正月以来、宮中歌会始にも出席。23年に日本芸術院会員になり、35年には文化勲章を受賞。翌36年、新宮市名誉市民になっています。
 昭和39年 5月 6日、自宅でラジオ録音中、心筋梗塞のため死去。72歳でした。

「黒潮めぐる紀の南/熊野の都新宮市/蓬莱なりとその昔/徐福もここに来たりとか/山紫に水明(きよ)く/人朗らかに情けあり」
「三つのみ山の一つとて/速玉の神ましませば/水にも火にも砕けざる/金剛の都市新宮市/山紫に水明く/人朗らかに情けあり」
「甍(いらか)連(つらな)る九千戸/伝統深き文化の地/み熊野川の川口に/桴(いかだ)の港新宮市/山紫に水明く/人朗らかに情けあり」

 昭和26年11月、佐藤春夫は『新宮市歌』を作詞して故郷・新宮をこのように美しく謳いあげました。そのころ、新宮市は戦災と2度の大地震(19年12月の東南海大地震と21年12月の南海道大地震)の打撃からまだ十分に回復していない時期でしたから、春夫は自分の故郷の復興に寄せる強い思い、願いも込めてこう詠ったようにも見られます。

 なお、4月9日の春夫の誕生日には門下生を中心に結成した「春の日の会」が催され、毎回100名ほどの出席があって文学サロンをなしていたそうですが、これほど豪勢な宴は他の文人には見られなかったといいます。主賓がおおらかで魅力あふれる人、春夫ならではありえなかった催しと考えられます。

門弟三千人
 「門弟三千人」と聞けば誰しも佐藤春夫を思い浮かべるほどこの言葉は春夫に相応しい。ただしそのもとはどうやら春夫の冗談から出たものらしいのです。
 新宮に狂歌などの好きなソロバン塾の先生がいた。ある時、町の人が弟子は随分多いでしょうね、ときいたら、「はい、十二万三千四百五十六円七十八銭九厘也…」(123,456円78銭9厘)と答えて相手を驚かせた。この話を耳にして冗談好きな春夫も(十二万と四百以下の部分を取り去って)《門弟三千》と洒落てみたということです。照れ屋だった春夫が自らそう豪語するなど考えられませんし、あくまで冗談の積もりだったと思われます。ところが大衆的人気を博していた評論家・大宅壮一がいつか文芸春秋誌上でその語を使って春夫を紹介したために、これが大いに広まり、定着してしまったようです。
 しかしいかに弟子が多くても春夫は文壇の大御所的存在になりませんでした。弟子や支持者を増やして次第に文壇を牛耳るようになるなど、春夫はまるで関心はなかったようです。春夫は、自分を訪ねて家の門をくぐった人で年下の人はみんな弟子、しかし私の門弟は優秀な人ばかりなので、私は何も教えたことはない、とよくいっていたそうです。
 春夫自身本当は門弟など持つことは好まないものの、その文学や人柄を慕ってやってくる若い人々と付き合い、文学その他について談義し、相手を励ますとともに、自らも様々なことを学びとろうとしていたのではないかともいわれます。


春の日の会
 昭和24年に始まって39年まで、16回開かれました。
春夫の親しい友人、知人、門人とみられる人々には堀口大学、稲垣足穂、高橋新吉、山之口貘、中谷孝雄、淀野隆三、外村繁、保田與重郎、檀一雄、亀井勝一郎、井伏鱒二、井上靖、西脇順三郎、奥野信太郎、吉田精一、林富士馬、島田謹二、柴田錬三郎、堀辰雄、中村真一郎、木山捷平、和田芳恵、五味康祐、庄野英二、庄野潤三、遠藤周作、安岡章太郎、吉行淳之介、古山高麗雄などがありますが、こうした人々も交えて会はいつも楽しく、和やかに行われたといわれます。
 39年 4月 9日、最後の「春の日の会」。外出の時には大抵天候に恵まれ、晴れ男を自任していた春夫にとってはめずらしいことに雨だったそうです。


オリンピック東京大會賛歌
 (4番まであるが1番のみ)

「オリンポス遠きギリシャの/いにしえの神々の火は/海を超え荒野をよぎり/はるばると渡り来て/今ここに燃えにぞ燃ゆる/青春の命のかぎり/若人ら力つくして/この國の世界の祭/喜ばん富士も筑波も/はためきて五輪の旗や/へんぽんとひるがえる/日本の秋さわやかに」

  昭和38年に作詞されたこの「賛歌」は、(作詞者・春夫没後5か月後の)39年10月10日、オリンピック東京大会開会式で斉唱されました。



佐藤春夫記念館